当山は人皇87代四条天皇の嘉禎3年(西暦1237年)近江源氏(宇多源氏)近江守護佐々木信綱が京都で宋から帰洛された曹洞宗開祖 道元禅師に謁し、承久の乱で戦死した一族の供養をお願いし、朽木の里に拝請、このとき禅師は付近の山野の風景が伏見深草の興聖寺に似て、絶景だと喜ばれ一寺の創建を奨められ、山号を高巌山興聖寺とするよう勧奨されました。

それから三年仁治元年、七堂伽藍が完成し、遷仏式には永平二世孤雲懐奘禅師の拝請を賜り、盛大に挙行され、それ以来当山が曹洞宗第三の古道場といわれました。

寛元元年(1243年)再び当山に寄られて御教化されて以来、永平寺の直末とし慶長三年まで格別兼務地として続き、永平十九世龍眠柞球禅師が当山に隠栖されてより、独住世代として三十六ヶ寺の末寺を有し、近江八十八ヶ寺の総禄所の地位を保っていました。開基佐々木信綱は宇多天皇
の直系で(宇治川戦陣争いの佐々木高綱も一族)その曾孫、義綱は氏を朽木と改めました。代々朽木を領し明治廃藩まで続き、当山はその菩提所でもあります。